昭和20年、前理事長が大勢の戦争孤児の救護活動を始めました。
戦争孤児救護婦人同志会を結成して、自宅を開放し、私財のすべてを投げだして孤児救護活動に乗り出したのです。
以前にも支那事変から太平洋戦争にかけ軍人の留守家庭だったり遺族の慰問や傷病兵の見舞いを行っていました。
そして終戦し、孤児救護にさらに力を注ぐことになりました。
この、戦災孤児救護同志が現在の愛児の家の前身となったのです。
昭和23年には児童福祉法が施行され、養護施設として戦災孤児以外の子どもたちも一緒に収容するように。
この辺りから愛児の家の建設期となり内外の方々の来訪も増え、赤い羽根募金の配布や米軍とのふれあいなどを行っていました。
昭和28年には基督教児童福祉会をキリスト教と同じ精神をもつと愛児の家を認め、特別加盟を認めました。
アメリカのスポンサーより送られた支援金を愛児の家に寄附。
昭和31年には愛児の家の付近にある西武線都立家政駅前の無人踏切に遮断器が新設されました。
これは、愛児の家の子どもたちの努力と誠一の賜物であると近所の方々に称賛されることに。
この遮断器新設には愛児の家の子どもたちの7年間にも及ぶ自発的な踏切番と、少女の事故死による遮断機新設のための署名運動が力となったと言われています。
現在は社会人として働いている愛児の家卒業生が、テレビで「戦後16年間を立派に生き抜いた戦災孤児」として紹介されたことも話題になりました。
また、昭和39年には前理事長と子どもたちによる毎日の生活が「ここにママさんがいる」というタイトルで映画1巻に描かれました。
昭和49年には、「援助の手は最も必要とする国々へ」という本部の方針に賛同し、20年以上も続いた援助を辞退。
昭和55年には、TBSドラマにて「一人来い、二人来い、みんな来い」が製作され火曜日放映となりました。